本部:「全国心臓病の子どもを守る会」の歩み
「全国心臓病の子どもを守る会」は、昭和38年(1963年)11月3日東京で結成されました。
結成のきっかけは、横浜の梅崎章子ちゃんをソ連(現在のロシア)で心臓手術を受けさせるために横浜の母親たちがカンパ活動をして、それが新聞で報じられたことにより、全国の心臓病児をもつ親達から手紙が寄せられ、連絡を取り合う中で、何回かの準備会をへて全国の会が結成されました。
その後各地に支部が誕生し、現在、46都道府県に51支部、会員が約5,300世帯の「心臓病の子どもを守る会」になりました。
結成は、先天性心疾患の子どもを持つ親たちが中心になりましたが、結成当初から患者本人も参加していました。
結成当時の課題その1:病院の問題
結成当初は、先天性心臓病の子どもをもつ親と、先天性心臓病の青年が中心でしたが、後に弁膜症などの後天性心臓病の患者なども入ってきています。
昭和38年当時は、手術ができる病院が極めて少ないこと、それは都会に集中していること、手術のレベルはまだ低く、手術ができない病気が多い状況でした。
日本の心臓手術は、昭和26年(1951年)に榊原仟先生が、動脈管開存症の手術をしたのが最初で、開心術が初めて行われたのは、昭和31年(1956)に曲直部寿夫先生によってです。
昭和40年頃でさえ、東京で心臓手術を行っている病院は、東京大学、東京女子医科大学、慶応義塾大学くらいのもので、身近に安心して手術でる病院が欲しいとの願いが結成当時の大きな課題でした。
結成当時の課題その2:費用の問題
手術を受けるためには、多額の費用がかかることが悩みでした。また遠くから都会の病院まで来るための交通費も大変でした。
昭和39年に国は、育成医療の対象に心臓病を入れましたが、それぞれの県毎の予算は極めて少なく、埼玉県では昭和47年までは所得税を払っている人は、10万円の打ちきり支給というようなことで、心臓病児とお父さんは、東京の親戚に住民登録をする人もたくさんいました。
結成当時の課題その3:血液の問題
結成当時は人工心肺に使う血液は売血が多く、血清肝炎の恐れもありました。その後も親が、親戚や会社の人に頼んで同じ血液型の人に病院へ献血に行ってもらうようなことも長く続きました。
課題解決に向けて
守る会結成以降、「心臓病児者の幸せのために」という言葉を掲げ、親や本人の交流や専門医との連携を深め、医療費問題、差額ベットの廃止、小児医療センターの建設、血液問題など国や都道府県へ働きかけてきました。また、医学も格段に進歩し、かつては手術ができなかった病気も手術ができるようになり、血液を集める心配もなくなりました。医療費も海外での移植以外、それほどかからなくなりました。